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自己理解をめぐる正当・正統性争い

2005年05月09日 20時43分09秒 | 不登校
↓ Fish Dance

http://fishdance.cocolog-nifty.com/fishdance/2005/05/post_58bc.html

というブログで、他者理解をめぐる話が出ている。
何か本末転倒だという気がしたので、ぱれいしあ名でコメントをしておいた。
貴戸理恵の「不登校は終わらない」とそれにまつわるシュ-レとの紛争は、個人的または集団的な自己理解をめぐる正当性/正統性の争いだ、というのが今回の紛争に対するわたしなりのまとめだ。

これに関しては、バフチンのドストエフスキ-論のなかにある「モノフォニ-よりもポリフォニ-」という話、ならびにF・D・ヴァ-ルの霊長類学についての「西洋神秘主義」批判が仲介をしてくれる思う。
バフチンは、ドストエフスキ-の小説を評論してこういった意味のことを語っている。「一人だけの語りではなく、たくさんの人の声が交わり、交錯し、混在する。それがドストエフスキ-の小説の特徴だ。あたかもモノフォニ-ではなくポリフォニ-のように。」
F・D・ヴァ-ルは、西洋の科学が長年見落としてきた霊長類をはじめとする生物の「社会」を、なぜ日本の研究グル-プは発見できたのかを問う。その答えは、日本には身近に霊長類が住んでいて、人との暮らしに溶け込んでいるから。だから日本人は西洋の学者には見えなかった動物の社会を観察できたのだ。ひとつの文化のゆがみは、他の文化から見るとよく見える。わたしたちはみな、それぞれに歪んだ鏡に映してものを見ている。互いのまちまちに歪んだ像を照らし合わせてはじめて、いろんなことが分かってくる。(エコソフィア11号 F・D・ヴァ-ル「静かな侵入--今西霊長類学と科学における文化的偏見」 昭和堂 2003:75-84)
(今、手元に資料がないため、いずれ補足説明・註を入れる予定です。)

ひとくちに「当事者」といっても個人差もあればグル-プごとの違いもある。観察する「当事者」(研究者)も含めて、みな当事者だ、という見方もできる。
そのなかで、互いにゆがみや偏りをかかえていることを自明の原理としながら、意見や情報を交換し、利害を調整してゆく作業が、今求められている。


なお、今回シュ-レ側が、一見奇怪にも映る反応をとったのには、割り引くべき事情もある。
TINA(there is no alternative)[他に選択の余地はない]をかかげたサッチャ-は、福祉を切り捨て、労働組合をつぶし、フェミニズムを弱体化させた。忘れてはならないのは、同時に世界のフリ-スク-ルの草分け・サマ-ヒルをつぶそうとしたのだった。
イギリスだけではなく、日本、アメリカ、オ-ストラリアなど世界各地のフリ-・スク-ラ-とホ-ム・スク-ラ-がサッチャ-に手紙を書き、メ-ルを送り、FAXを送った。必死に国際的に抗議をして、何とかサマ-ヒルは「おとりつぶし」をまぬがれたわけだ。
 石原都政の吹きすさぶ東京で、シュ-レや奥地さんたちに「シュ-レつぶしの御用学者の卵の攻撃?」との懸念があったであろうことは、ブログでこの件を評する方にはわかった上で討論していただきたい。なにせ、シュ-レは文部科学省から「公教育否定」を疑われ、「目のうえのタンコブ」扱いされてきたのだから。

それから、他者論によく出てくる「あなたは他者ではない。あなたが他者を分からないのは、他者が他者だからだ」とする記述について。これは同義反復であって、何の理由にもなっていない点には留意されたい。
さらに、「他者はあなたの鏡像ではない」とする議論もある。これには、社会をめぐる問題に、心理を主題とする話題を挿入するジャンル錯誤だと論難することもできる。とりわけ、この議論が実証社会学者から出された場合には、「どこに具体的・客観的な根拠があるのですか?」と質問すると面白そうだ。観察をする「当事者」は、自己理解をしているのか?「汝自身を知る」という大切なテ-マに反して何をしているのか? 生き残りと尊厳をかけて自己理解の正当性・正統性を打ちたてようとする人々に向かって、自分を知らない者が説明や仲介やお説教できるのだろうか?